もっと陽の当たる場所 石本ひろゆき 2011年11月3日連載開始。(全10話)
第1話
夏の終わりがもうとっくに過ぎているはずなのに汗が滴り落ちる午後、僕はどうしようもなかった。
一晩中歩いて、電車に乗って、降りた。蝉がまだ泣いていて、Tシャツが汗でべっとりしていて、ジーパンのひざは抜けていた。靴の底が割れているのをガムテープで固定して、リュックには詩とも小説とも脚本とも言えない言葉が詰まっていた。
ひどい格好だ。ひどい気分だ。
適当なベンチをみつけて眠ったら、汗で溺れて目が覚めた。
目の前に赤銅色に焼けた皮膚の老人の顔があった。
「煙草をくれ」とせがむのでハイライトを一本渡すと、僕の隣に座った。
以前は白かったであろう作業ズボンは灰色と茶色に染まっていて、シャツはヨレヨレで臭かった。いつまでたっても火をつけないのはライターがないからだろう。
僕は少し意地悪な気分になって黙っていたら、少したって「火を貸してくれ」と言ってきた。
笑いながら、火をつけてやるとうまそうに煙を吸った。
それで僕も一本取り出して、吸った。いつもと同じ味だった。違うはずはない。不味くはない。好きでハイライトを吸っている。でも、隣の老人のように美味しそうに吸うことができなかった。
老人は僕に目も合わせずしゃべり始めた。
自分がプロ野球の選手だったとか、歌手のマネージャーだったとか、大物のヤクザだとか、適当なことを言ったあと、突然目を合わせたと思ったら、 「人生にとって一番大切なものは何か知っているか」とたずねた。
僕はもちろんそんなものは知らないから、首を横に振ると「自由だよ」と去っていった。
ひどく暑い。
商店街を歩いてすぐ見つけた赤い喫茶店にはいった。
テーブルもソファもカップもみな赤だった。ホットドッグとコーヒーを頼んだ。
赤いカップのコーヒーは苦くてうまかった。
青色のワンピースの女もピンクのTシャツの女も美味しそうに飲んでいた。
オレンジのシャツにデニムのスカートの女だけがコーヒーに手をつけずに本を読んでいた。
オレンジのシャツに合いそうな本を想像してみた。
小説ではないだろう。きっとなにか資格の本か、そうでなければ聖書だろう。
青色の女は携帯電話でなにやらしゃべっていた。スプーンをまわして、楽しそうに笑ってしゃべっていた。
ピンクの女はやたらと時間を気にして、煙草を吸っていた。
ドアが開いて、やせた若い男が入ってきた。
オレンジの女の前に座った。女は本を閉じ、男はコーヒーを頼んだ。
やはり赤いカップだった。
女は男を見つめていた。男は小声でなにか言ったあと目線を窓の外に運んだ。
女は悲しそうな顔をして明るく「いいのよ」と言ったら、男は目線を女に戻したので、女はあわてて笑顔を作った。
青色の女が「ギャハハ」と笑って「それじゃまたね」と携帯を切った。
あんなに機嫌のよかったはずの女の顔が急に曇って、コーヒーを口に含んだ。そして誰かにまた電話をかけて「ひさしぶりい」と楽しそうにしゃべりはじめた。
オレンジの女が「なにしゃべってるんだろう、楽しそう」と独り言のようにつぶやくと、男は「きっとくだらないことだよ」と頬杖をついた。女も「そうね」とまた悲しい顔を一瞬した。
「それじゃあ、いまからいくよ」と青色の女が上機嫌に携帯を切ると、残りのコーヒーを一口で飲んで、出て行った。そのあいだ、ピンクの女は淡い煙を吐いていた。オレンジの女は男と何かを語ろうと試みては、失敗していた。
他の客はみな二人連れだった。男と女。女と女。みなしゃべっていた。映画の話とか、仕事の話とか、テレビの話とか、つまりは普通の話をしていた。きっとオレンジの女はそんな普通の話がしたいのだろう。
男が時間を気にして、手を差し出した。女は「そうね」と言って封筒を鞄のなかから出した。封筒を受け取ると男はコーヒーを一口飲んだだけで出て行った。女は男を目で送ったあと、ようやくコーヒーを飲んで小さく「美味しい」と言った気がした。
時計はもうすぐ三時だ。
ピンクの女が煙草をもみ消した。時計をもう一度確認すると財布をもってレジに向かった。
入れ替わるようにまた男が入ってきた。今度の男はまだ外は暑いというのにスーツを着ている。
またオレンジの女の前に座った。赤いカップのコーヒーを飲んで、小声で何かを相談して、男が最後に「飛ぶんだよ」とわざと他人に聞こえるように言った。それきり二人は黙ったままで、コーヒーを飲み終わると、男が出て、しばらくうつむいていた女が席を立った。
ずっと彼女たちを見てたものだから、青、ピンク、オレンジの色が消えるとなんだか世界が頼りなくなった。僕は医者からもらった精神安定剤をコーヒーといっしょに飲んだ。そしてハイライトに火をつけ一服すると、僕の視界がぐるりと回って椅子から転がり落ちた。
「大丈夫ですか」とウエイトレスが僕に声をかけた。
お客たちがおしゃべりをやめて僕を一斉に見ている。
僕は床に寝転んだまま、「大丈夫」とこたえた。
コーヒーが僕の服を汚した。テーブルからこぼれる褐色のしずくが頬に落ちてくる。僕はなんとか立ち上がり、また眩暈がして赤いテーブルをつかみ、倒れた椅子を元に戻して腰を下ろした。「だいじょうぶですか」 ウエイトレスはそう言いながらテーブルを片付ける。僕は「ごめんね」と謝ると「いいんですよ。それより本当にだいじょうぶですか」ときく。
僕は「だいじょうぶ。ちょっと貧血になっただけだから」とこたえて、コーヒーに染まった伝票をつまんだ。
喫茶店を出たら暑さがぶり返してきて、止まっていた汗がふきだした。さっきのコーヒーとまざって褐色の汗だった。身体はまだフラフラしていて蝉はまだ泣いていた。蝉は鳴いているんじゃなくて、泣いているんだ。ずっと土の中で身を潜め、ほんの一瞬の逢瀬のために泣いているんだ。だから鬱陶しい。鬱陶しいほどのむせび泣きだ。
暑さと蝉の声にまとわりつかれながら、僕は商店街を歩いた。
風もふかない。
十五分も歩くと、商店街は終わってしまう。これが最後だというように小さなビジネスホテルと古本屋があった。何か読もうかと、店に入ると初老の主人に「あんたひどい格好だね」と言われ、すぐに引き返した。どうせリュックには溢れるほどの言葉がある。これ以上何をつめればいいというのだ。でも確かにひどい格好だ。もともとひどいうえにコーヒーの染みが拍車をかけている。
古着屋でTシャツを、コンビニエンスストアでパンツと靴下を買い、駅に向かった。バス乗り場の奥にあったトイレにかけこんだ。個室に入り全裸になった。タグを歯でかみ切り、パンツをはき、靴下をはき、ジーパンをはき、靴をはき、Tシャツを着た。レジ袋に汚れた服をつっこみ、個室を出た。水道の蛇口をひねり、手を洗い、顔を洗った。レジ袋からもう一度汚れたTシャツを出して手と顔をふいて、また袋にねじ込んで、ゴミ箱に投げ捨てた。
トイレから出る僕は警察から姿を眩ます犯罪者のようだった。
交差点をわたらず地下道をもぐった。ホームレスが幾人かいた。彼らに混じって座った。座ったところで何も変わらなかった。誰も僕に興味を持とうとしないで、それぞれの格好でダンボールを敷いて寝転がっていたり、壁にもたれていたりしていた。
そこには、どうやって手に入れたかわからないアルコールの臭いと、ニコチンの煙とがあって、僕もひざを抱えてハイライトを吸った。