裸でワルサー 石本ひろゆき 2012年6月7日〜7月25日 連載。 (全8話)

第1話

夏の日。目が覚めると汗で溺れていた。

クーラーのリモコンを手にしてスイッチを押した。
シャーという音がして、冷気が裸にまとわりつく汗を暴力的に吹き飛ばす。
昼だというのに遮光性のカーテンのせいで光が全く入らない。

闇だ、そう思った。そう思ったことが恥ずかしくなって、チッと舌打ちをした。

隣りの女が寝返りをうつ。十八度に設定されているクーラーが、部屋の空気の質をかえていく。
暑さという鎖がほどけていく。
僕はようやく首をあげ、身体をおこした。女はまだ寝ている。
肌寒くなったのか、足元にあったタオルケットをひきあげてくるまった。

オーディオのスイッチをいれる。ブンッと小さな音がしてYAMAHAのアンプが立ち上がる。
僕は身体を起こし、自分の股間を眺めた。だらりと小さくたれているのが暗闇のなかでもわかる。

どうしてたちあがっていないのだろう。

僕は自分をこすりあげた。物理的な刺激でそれは首をもちあげ天をさした。
ははは。お前は勃つことしか能がないんだからいつだってそうしてればいいんだ。
僕はそう言ったが、こするのをやめた途端、男らしさは失われていく。

再生ボタンを押すと、BOSEのスピーカーから、ブランキーが流れた。
モデルガンで頭を撃つまねをしてベッドに倒れこむ、そんなフレーズが六畳の部屋を震えさせる。
僕も同じようにモデルガンを手にとった。
子供のころルパンIII世に憧れて買ったワルサーP38のモデルガンだ。
何を手放してもこれだけは手放さなかった。歌のフレーズどおり頭を打ち、ベッドに倒れこんだ。

天井を見上げた。
僕は今どんな顔をしているのだろう。
何かをやることのできる男は何かをやれる顔をしている。
有名なロッカーもアーティストも政治家もスポーツ選手も
そして犯罪者も何かをやる男は「やる顔」をしている。

ベッドから体を起こし姿見を覗いた。暗くてよく見えない。
枕もとの電気スタンドをつける。もう一度覗き込む。

平凡な顔だった。

この顔は犯罪者の顔ではない、ましてや哲学者のそれでもない、
ただの世間に置いてきぼりを食った一般人のそれだった。
いつのころからだろう。僕は人とは違う自分に憧れた。
普通でいたくないのだ。特別な「何か」になりたかった。俳優だとか、
ミュージシャンだとか、映画監督だとか、作家だとか、そういうものになりたかった。
松田優作とか、ブルーハーツとか、キューブリックとか、村上龍とかそういうものになりたかった。

おそらくそれは誰しもが味わう「自意識」の感覚なのだろうと思っていた。
一般的にそれを思春期と言うのも知っていた。
僕もはじめはそんな普通の子供に過ぎないと思っていた。
だが他の友達が現実と折り合いをつけて自分の道を決めていったり、
現実を強引にねじ伏せて自分のなりたいものに邁進するのに、
僕はいつまでたってもただ「何者」かになりたいだけで、
その正体すらわからず、ただ、ただ焦燥感だけを募らせていた。
それは他の同世代の奴とは少し違っているように感じた。

一度だけ僕は「何者」かになったことがあったらしい。
母親が僕を刺したときだ。僕はあのときの前後半年をよく思い出せない。
ただわき腹のキズアトが、母が僕を刺したという事実を雄弁に語っていて、
そのときの僕は母親に殺意を抱かせるほどの何者かであったに違いないってことだけだ。
だが、肝心の記憶がない。
しかもずっと事故だと聞かされていて、真相を知ったのはつい三年前のことだ。

視線を感じたら姿見の中に目を覚ました女がいた。

「なにやってるの」

声を無視してもう一度ワルサーをこめかみにあてて引鉄をひいた。
ばあん。そう言って勢いよく倒れた。手の先のモデルガンが女の頬をかすめた。

「純平、ちょっと」

女の声が聞こえるような気がする。最近の僕は全てにフィルターがかかっている。
世界の全てがモノクロの無声映画をみているような感じがして現実感がない。
女が何かわめき散らしているのがわかるが、
鏡越しに見えるそれはスクリーンの向こう側でわめいているのと同じで、
僕を傷つけることがない。

何をしているのだろう? 

女に言われて自分の姿を考える。裸でワルサー。
何か映画か音楽のタイトルのような感じがしてかっこよく思う。
でも実際のその姿はだらしなくて無様だ。裸でワルサー。
その言葉がかっこよく感じるのはきっとどちらも禍々しいからだろう。
いつもは大げさな布でひた隠しに隠した自尊心が、拳銃という凶器をたずさえて露になっている。
「俺を見ろ、さもなくば殺す」そう脅迫しているのか、
ホモサピエンスの究極の象徴はSEXと暴力であることを象徴しているのか。
でも拳銃はモデルガンで、生殖器は射精障害だ。
僕の手にあるワルサーも股間にぶら下がっているワルサーも発射することがない。

「死んだんだよ」

女の腰のあたりに手を伸ばしながら僕は言った。

「ちょっとぉ、腫れたらどうするのよ」

僕の手が届く前に女は腰を浮かせ、姿身の前に立った。
行き場を失った僕の手は宙を掴んだ。女は恨みがましく鏡を覗き込む。

「まえからずっと思ってたんだけどさ」

「カリカリベーコン」

「あのね私たち別れたほうがいいと思うの」

「カリカリベーコン」

「私はあなたに甘えているし、あんたも私に甘えている。普段だったらそれでいいのよ。
でも今のままじゃお互いだめになってしまうと思うの。
私はね、お互いが成長しあえるような、そんな関係がいいの。聞いてる?」

「カリカリベーコン」

「私たちの一年間ってなんだったんだろうね」

「カリカリベーコンがのったサラダが食べたい」

女はキッチンに消えた。

フローリングを踏み鳴らす足音がやつの不機嫌さを奏でている。
映像はソフトフォーカスでスクリーンのなかにいる女のセリフはっきりしないくせに、効果音がいやに鮮明だ。 イライラする。気分を変えるために裸のままデスクに向かい、パソコンを立ち上げた。
インターネットに接続して、ブログを書きはじめた。

8月8日。
みんな心配してくれてありがとう。状況はあまりかわりません。
兄貴は相変わらずだし、僕もへそ曲がりだからしょうがないです。
オヤジが入院したと連絡があって、あのときの僕は動揺してしまって、
らしくない日記を書いてしまいました。なにせ三年ぶりに兄貴から連絡があったんだから。

動揺したのはオヤジが結核で倒れたということではありません。
もちろんこの二十一世紀に結核なんて病気が撲滅されていなかったのにも驚きましたが、
オヤジがどうなろうとこうなろうと僕には関係ないと思っていたからです。
ただ関係がないと思い込んでいたのはどうやら僕一人で、
兄貴はどうあっても僕と親父を会わせたがるものですから、
僕もカアっとなって、あのときは冷静さを失ってしまったんです。
兄貴と僕は犬猿の仲、水と油、です。僕が何を言っても兄貴は気に入らないし、
兄貴が何を言っても僕は気に食わない。
それにこの日記をもしずっと見てくれている人がいたならわかると思うけれど、
僕は神様というのが大嫌いで、親父も兄貴もその宗教とやらを信じているから、余計に会いたくない。 僕が何を言っても最後は神様の話にしかならないからです。

僕がここまで書いたときに腹が非常に減っていることと、
カリカリベーコンのサラダの幻覚が口に広がった。
はやくしろよ。僕はキッチンのほうに視線を向けたが女の姿はなかった。
携帯のLEDが点滅している。

メールだ。

女からだ。

『純平。さようなら。この一年ありがとう。本当に好きだった』

あいつは出て行った。僕は再びPCに向かい日記を書いた。

ここまで書いている途中で、事件がありました。
いっしょに住んでいた女が今、部屋を出て行きました。
原因はカリカリベーコンです。
朝起きたらいつものようなどんよりした気分で自分の世界に浸っていました。
そんな状態のときに女が何か大事な話をしていたようです。多分将来のこととかそんなことです。
でも女の言うことよりもそのとき頭の中を支配していたのは香ばしいカリカリベーコンでした。
返事をするかわりにカリカリベーコンとだけ繰り返し言いました。
そしたら女は挨拶もせずに出て行きました。
メールが来てひとこと〈一年ありがとう〉とだけありました。

不思議と何の感情もおこりません。
悲しみもなければ、重荷をおろしたようなほっとした気持ちも起こりません。
ただあっけないと思っただけです。
この世のおこる様々な事象はきっといろいろ理由があるのでしょうが、起こってみればあっけないものです。

オヤジが入院して、女を失って思えることは今はそんなことなんです

確認画面。

クリック。以下の内容で作成します。

よろしいですか。はい。クリック。クリック。

冷蔵庫をあける。ベーコンがない。いつもあるのに今朝はない。僕は舌打ちをした。
そして笑った。笑って冷蔵庫の中身を床にばら撒いた。ビール、ビール、ビール。
100パーセントオレンジジュース。マヨネーズ、ケチャップ、ポン酢、和風ドレッシング。豆腐、納豆。ひき肉、鳥の胸肉。豚バラ。キャベツ、トマト、アスパラ、ピーマン。キュウリ。えのき。チーズ、バター、イチゴジャム、マーマレード。卵、卵、卵、卵、卵。
だが、ベーコンはない。

諦めてベッドに戻る。

セブンスターに火をつけた。煙を肺に思い切り吸い込む。
喉が焼けるように痛い。カーテンをあける。強烈な光が僕を露にする。
そう言えばまだ裸のままだった。神様、どうか僕にベーコンをください。

尿意をもよおしてトイレに駆け込んだ。

便器にベーコンのかたまりが浮いていた。神様ありがとうございます。
ベーコンは見つかりました。僕はベーコンに小便を引っ掛けた。
このまま流すと詰まってしまうと困るから素手でベーコンを摘み上げた。
足早にゴミ箱へ向かう。ベーコンから小便のまじった便所水がポタポタと落ちて床をぬらす。
カリカリベーコンがグショグショベーコンになってしまった。
部屋からは相変わらずブランキーが「愛はいらない」と叫んでいて、
僕はその音にあわせることなく、ベーコンを一枚ずつゴミ箱に落としながらルパンIII世のテーマソングを絶唱した。

「ワルサーピーサンジュウハチィコノテノナカアニィ…」

裸でワルサー、グショグショベーコン。それが暑い夏の始まりだった。

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