もっと陽の当たる場所 石本ひろゆき 2011年11月3日連載開始。(全10話)

第3話

次の上映まで少し時間があったので、僕は煙草を吸いにロビーに出た。

ハイライトの濃くて深い煙を吐いていると、オレンジの女もロビーに出てきて、自動販売機でジュースを買おうとしていた。

小銭がないらしく千円札を自販機に入れようとするのだが、どうしても受け入れてくれなくて困っていた。僕はポケットから出した小銭を、彼女の肩越しから自販機にいれて「どうぞ」と言った。

オレンジの女はびっくりしたような、困ったような顔をして「そんな」といって固まってしまった。僕は仕方がないのでまず自分の缶コーヒーを買って、もう一度小銭を自販機に飲み込ませて、「コーヒーでいいですよね」と少し強い調子で念をおして、彼女をうなずかせた。

ゴロリとでてきた缶を彼女に押し付けて、僕はまたロビーのベンチに戻りコーヒーを飲みながらハイライトを吸い始めた。

彼女は僕の座っているベンチの隅に腰を落として、「ありがとうございます」と言った。僕はちょっとだけ頭を下げたら、彼女も頭を下げた。彼女は缶を両手で持って大事そうに甘い液体を飲み始めた。

プログラムを見ると朝の五時まで休憩を挟んで六本の上映だった。

次は不妊治療から誕生までを追ったもので、僕は興味が持てなかったから、リュックからノートを取り出し、今日一日のことを書きはじめた。映画がはじまったようで赤ん坊の泣き声とピアノの旋律が漏れ聞こえてきた。

「見ないんですか」と彼女は僕を誘った。
「こういうのはちょっと」と断ると、少し間が空いて、僕はその間ノートにペンを走らせていて、「わたし、見てきますね」とわざわざそう言って、防音の重いドアを開けて中に入っていった。

コーヒーを二本飲んで、煙草を五本吸ったところで、ピアノの旋律が不自然にフェードインしてすぐにフェードアウトした。

目を上げると彼女が立っていた。

「わたしもこういうのはちょっと」と言って僕の隣に座った。僕は「そうですか」といって、またペンを走らせた。

僕はこの町に着いて、ベンチで眠り目が覚めて老人に出会ったところから刻銘に書き綴った。
それは物語ではなくて本当のことをできるだけ正確に書こうと思った。それは書くことでどこかにこの町から出られる何かが見つかるかもしれないと思うからだ。それに本当のことを書くことで僕のリュックに詰まっている物語の亡霊たちを救い出せるかもしれないと思ったからだ。

「これってわたしのことですか」

僕が『男が時間を気にして、手を差し出した。女は「そうね」と言って封筒を鞄のなかから出した。封筒を受け取ると男はコーヒーを一口飲んだだけで出て行った。女は男を目で送ったあと、ようやくコーヒーを飲んで小さく「美味しい」と言った気がした』と書き終わったところで彼女はそう声をあげた。

僕は構わず『ピンクの女が煙草をもみ消した。時計をもう一度確認すると財布をもってレジに向かった。入れ替わるようにまた男が入ってきた。今度の男はまだ外は暑いというのにスーツを着ている。またオレンジの女の前に座った。赤いカップのコーヒーを飲んで、小声で何かを相談して、男が最後に「飛ぶんだよ」とわざと他人に聞こえるように言った。それきり二人は黙ったままで、コーヒーを飲み終わると、男が出て、しばらくうつむいていた女が席を立った』で、彼女は僕のノートを奪った。

彼女は僕が書いた言葉を何度も何度も読み返した。

そのあいだ、ハイライトを吸った。

彼女は「すみませんでした」と僕にノートを返すと「携帯」と言った。

「携帯のアドレスか番号を教えてもらえませんか」
「すみません、今ないんです。落としたか、置いてきたのかわかりませんが」
「それってまだ書きますか」
「ええ、書きますよ」
「わたしを書きますか」
「ええ、あなたも書きますよ」
「明日、会えますか」
「ええ、いいですよ」
「明日、また見せてください。それと少し、お話しさせてください」
「ええ、それで」
「あ、そっか、携帯ないんだ。じゃあそのノートに書いてあった赤い喫茶店で、昼の三時でいいですか」
「はい」
「わたし、ユウコっていいます」
「サトウです」
「じゃ、明日三時」

そういうと「お願いしますね」と立ち上がり、僕はまたノートにペンを走らせ、ピアノの音が不自然にフェードインしてすぐにフェードアウトした。

「もう終わりですよ」と声をかけられて目が覚めた。館内はもう誰もいなくて、僕はベンチの下にノートとペンを落としていた。

午前五時の商店街は静謐だった。新聞配達のバイク音以外何も聞こえなかった。
もう一度僕は駅に向かった。今度はもしかしたらいけるかもしれないと地下道をくぐった。ホームレスは誰もいなかった。僕は少し不安になってまたハイライトに火をつけた。深く煙を吸い込み、そしてゆっくりと吐いた。

券売機の前で僕は動けなくなった。

眠い。

雑居ビルの四階に漫画喫茶を見つけた。受付を済ませると激しい尿意を覚えた。
僕は伝票をもったまま、トイレに駆け込んだ。

小便が止まらない。
身体が軽くなるのを感じる。

もう終わるだろうと思ってからがまだ長かった。肺に穴が開いて入院したときのことを思いだした。

看護士さんに小便の入った尿瓶を渡すのが恥ずかしくてずっと我慢していた。でもどうにも我慢ができなくて尿瓶に吐き出すと溢れるぐらいに出てしまって「我慢してたんですね」と言われて恥ずかしかった。

鏡をみるとひどい顔だ。無精ヒゲに髪は汗でベットリしていた。

自分の席にリュックを放り投げると、僕はもう一度受付に戻ってシャワーを借りることにした。シャンプーとタオルとヒゲソリを買って、トイレの隣のシャワー室に入った。人一人がようやく入れる広さで、僕は多分久しぶりにお湯を浴びた。
個室に戻るとそこは暗闇で、手元のライトで一人分の明りがともった。
僕は急いで今日一日分の出来事を書いた。そして眠った。

たぶん夢を見ていた。自分が覚醒するに応じてそれには手がとどかなくなって何を見ていたのかさっぱりわからなくなったとき、目が開いた。時間は午後二時だった。滞在時間分の料金を払い外に出るとまた蝉が泣いていた。

buy now !


(C) 2009-2012 Wish Co.,Ltd. All Rights Reserved.