もっと陽の当たる場所 石本ひろゆき 2011年11月3日連載開始。(全10話)

第4話

赤い喫茶店にいくとオレンジの女がもういた。

窓越しに僕を見つけ微笑んだ。僕はどうしていいかわからず、頭を下げた。
店に入ると真直ぐ彼女の元に行き、ウエイトレスにコーヒーを頼んだ。
彼女はきのうとは違って少しもセンチメンタルなところがなかった。僕に会うなり、「ノート見せてください」と頼んだ。僕は渡した。彼女は読んだ。僕はそのあいだ、またハイライトを吸った。彼女はノートを僕に返すと「これなんですか」と聞いた。僕は「日記みたいなものです」と答えた。「日記に、夏の終わりがもうとっくに過ぎているはずなのに、なんて書き出しはしません」と僕を非難した。

「それに私は聖書なんて読みません」と否定した。僕は「それは悪かったです。でも僕にはそう見えたというだけで、君には何も関係がないんじゃないですか」
「これ、発表しないんですか」
「たぶん。書いてあるように、自分のために書いています」
「でも、あなたは物書きなんでしょ」
「小さな劇団に脚本を提供しているだけですよ。それにそれだけじゃ食えないから舞台の裏方を毎週やっていた。それでなんとか食っていました」
「あなたは自分の物語が他人に感動を与えた快感を知っている。そんなひとが、自分のためだけに何かを書こうとするはずはない」
「で、君は何がいいたいんだ。このノートを書くのをやめてくれっていうのなら、申し訳ないができない。君のことは、今日の事は書かないわけはないけれど、これからは関わらないようにする。約束する」と僕はすこし興奮して言った。
「そんなこと言ってません」

それからしばらく沈黙があって、僕はその隙間を煙で埋めた。

「煙草、好きなんですね」
「カフェインとアルコールとニコチンは国が認めた合法ドラッグだと思う」
「そうね」
彼女はそう言って、コーヒーを一口飲んだ。そして「わたしのことどう見えました」と聞いた。僕は「そこに書いてあるとおりだよ」といったら「わたし、聖書も資格の本も読んでいません」と言った。 「資格の本を読むか、聖書を読むしか選択肢のない女ってどんな女なんですか」
「切実そうだった」
「切実」
「そう、過去を捨てるためにどうしようもなく前をみるか、どうしようもない現実に光をみようとするしかない人に見えた。それに君は飛ぶしかないんだろう」
「飛ぶつもりでした」

そう言って、彼女は鞄の中からクリアファイルをだして僕の目の前に差し出した。A4数ページの表紙には『私をミル男』とあり、企画制作、監督にヨコカワユウコとあった。ページをめくると『私という現実を映す鏡として、私を見る男を撮る』とあり、出演者の名前に僕の知らない男の名前があった。

「わたし、あのとき、切実でした。男に金を貢いでいました。そうです、封筒をわたしたあのひとです。恋人のつもりでした。でもあのひとにとってわたしはキャッシュディスペンサーだった。キャッシュディスペンサーであり続けるためには現実を捨てて飛ばなきゃいけなかった。そのかわりあのひとを撮ろうと思った」

「ヨコカワさん」
「ユウコでいいです」
「ユウコさんは」
「ユウコでいいです」
「じゃあ、ユウコは飛ぶのをやめたんだ」

「やめました。あのひとはわたしをみる人じゃなかったから。わたしは男のために飛んで落ちていくさまを、あのひとを撮ることで表現しようかと思ったんです。でもあのひとはわたしを見ていませんでした。あのひとにとってとても大切なお金をもらうときですらわたしを見ていませんでした。あなたのノートの通りです。でもそのとき、あなたはわたしをみていた。ちゃんと見てた。わたしはなるべく普通でいようと思ってそう振舞ったつもりなのに、わたしの切実さを見ていました。」
「あなたはコーヒーを美味しいと言いました。聞き間違いかもしれないけれど、あなたは言った」
「言いました」
「ちっとも美味しそうでないのに、微笑までつくって、誰にもいないのに美味しいって言った。あのとき青色の女の人も、ピンクの女の人も偏っていました。でも偏ったところで落ち着いていた。でもあなたは境界線にいたような気がした。僕は本当に飛ぶと思っていました。本当の意味で、空か、列車かわからないけれど、このひとは境界線を越えて飛ぶかもしれないって思いました」
「どうしてそう書かないんですか」
「僕にとって飛ぶとはそういうことだから」
「でもこれは小説でしょう。小説なら書くわ」
「物語なら書いたでしょう。でも物語は書くのをやめたんです」
「そう書いてあった」
「それにこれは詩とも小説とも脚本ともいえない言葉です」
「あのひととは別れます。だから飛びません」
「それはよかった」
「ねえ」
「はい」
「わたしは、あなたを、撮りたい」

赤い喫茶店を出て、僕は古本屋に向かった。そのあいだ、彼女は僕をビデオカメラで撮っていた。僕は「勝手にすればいい」と言った。彼女はそれを承諾と思ったようだ。「あなたのことを僕が勝手に書いたように君も僕を勝手に撮ればいい」ともう一度言ったのだが、彼女は僕に下の名前を聞いて、僕がレンジだとこたえると、出演者の欄に『サトウレンジ』と書いた。

僕はどうにでもなれと、少し投げやりになって、僕を閉じ込めている檻の前へと向かった。

僕は知っていた。どうすればこの檻から抜けられることができるのか、でも僕はしなかった。
案の定、僕は古本屋の前で一歩も動けなくなった。
彼女が僕の手を引いた。でも僕の身体は岩のように頑なで、境界線から一歩も出られなかった。
「閉じ込められてるって本当なのね」と彼女はカメラを回しながらため息をついた。僕は彼女を見て、笑って見せた。「本当なんだよ」と笑って見せた。僕らは折り返し駅に向かった。地下道をくぐって、「ここが僕の場所なんだ、多分」といって、きのうと同じ場所に座り込んでハイライトに火をつけた。僕と彼女のカメラのあいだに濃くて深い煙が横たわった。吸い終わると、彼女が僕の手をつかんで起こしてくれた。僕は向かった。もうひとつの檻の前に。檻は健在だった。券売機の前で僕はまた動けなくなった。どうあっても今の僕では動けなかった。

僕は知っていた。どうすれば僕が動けるのかを知っていた。僕は別の僕になればいい。簡単だ。芝居でいつもやってることじゃないか。深く息を吸って、止める。スイッチを入れる。僕に嘘をつけばいい。着せ替え人形のようにいろんな僕を持っている。そのなかから一番活発なやつをもってくればいいだけのことだ。それでこのバリアがとける。でも僕は知っていた。そうやって超えてもまた、僕は別の檻の中に閉じ込められるのだということを知っていた。

「取り乱さないのね。もっと混乱しているのかと思った」
「二回目なんだ」
「二回目って」
「意識をなくしてどこかにいって閉じ込められたんだよ、四年くらい前にね」

四年前僕は大阪にいた。そのときも僕はどうしようもなくて、気がついたら新幹線に乗っていて、携帯電話は鳴りっぱなしで、僕は電話にでようとしてでられなくて、気がついたら電源を切ってゴミ箱に捨てていた。電車を乗り継いである町に降りたら、そこから出られなくなった。

何もかも放り投げてきたことの恐怖と外にでられない不安で僕はおかしくなった。いろんな音や光が無差別に侵入して、僕は錯乱した。一刻もここから出たくて僕は嘘をついた。僕は逃げてきたんじゃない。放浪してるんだと思い込もうとした。いや、思い込んだのではなく、放浪している作家になった。放浪作家になると檻からはすぐに出られた。新聞配達で生活の地盤をつくり、放浪作家は東京で劇団を旗揚げし、それなりに人気が出て、他の劇団にも脚本や演出を引き受けるようにもなった。だが放浪作家の耐久年齢は四年だったんだろう。僕はまたどうしようもなくて、ここに閉じ込められている。

だから安易に出てはいけないのだ。嘘をついて出て行っても同じ事を繰り返す。

嘘は長くは続かない。

僕は券売機の前でじっとしていた。そのあいだ彼女は僕を撮っているようだった。
「こんなもの撮ってどうするんだ」と僕は彼女を見た。
「ほら、今わたしを見た。ねえ、わたしは今どう見える」
「わからないよ」
「理解不能ってこと」
「複雑なんだよ。君は見られて喜んでいるし、僕の奇妙な事態に付き合って少々混乱と同情があって、これをカメラにおさめたいっていう衝動と、こんなもの撮ってはいけないという罪悪感がいっぺんに出ていて、そうだ君は困惑してるんだ」
「あなたは二回目だっていうけどどうしてそんなに平気なの」
「わからない」
「わからない?」
「わからないんだよ。だから書いている」
彼女はカメラで僕を撮るのをやめて、手を引いた。
「実験しようよ」
タクシーに僕は放り込まれた。彼女は僕の知らない町の名前を運転手に告げて、僕に「つらくなったらすぐに言ってね」と気遣ったが、もう身体はフワフワと所在がわからなくなってしまった。タクシーは商店街から離れた。僕の身体は浮いている。フワフワと浮いている。「僕は今、浮いているかい」と聞くと「ううん」と首を横に振って否定した。「ちゃんと座ってるよ」と手を握る。僕は彼女を見る。彼女は僕を見る。
「檻から出たわよ」
僕はうなずいた。
「もうすぐだから、がんばって」

僕はうなずいた。なにをがんばるのかわからないけれど、僕はがんばった。
僕はがんばって話をした。
老人の話だ。きのう出会ったあの「自由」といった老人じゃない。
僕が書きかけの物語の主人公の話だ。老作家で一冊だけ売れてあとはもうどうしようもない老作家だ。
出版社からの依頼はもうずいぶん前から来なくなったのに、つまらない話を山ほど書いた。
書いて、書いて、書きまくった。でも、どう書いても最初に売れた処女作を超えることができない。
老作家は何度も何度も試みるんだ、今度こそ傑作がかけると信じて。でもできるのはいつかどこかで誰かが書いたような話で、それを、もうどうしようもなく古くなってしまった文体で書いてしまう。
そんな老作家に久しぶりに仕事が来た。クリスマスの短編を書いてくれと。老作家は喜んだ。それですぐにプロットっていう小説の設計図を作った。
つまらなかった。
何度組みなおしてもつまらなかった。老作家はどうしようもなくなって設計図を破った。
バラバラに、粉々に、ついでに今まで書き溜めた下らない作品のすべてを唯の紙片に変えた。
老作家は気づいた。
自分は処女作で自分のすべてを消費してしまったってことに気づくんだ。
老作家は認めた。気づきたくなかったことをついに認めた。
処女作で自分のすべてが枯渇したことを。
老作家は売れに売れた自分の処女作にハサミを入れた。
おまえが悪いんだ、おまえが悪いんだ、と叫びながら処女作をバラバラに粉々に切り刻んだ。
老作家の机の上は粉々になった言葉の山だ。
老作家は笑いながら言葉を宙にばら撒いた。言葉が紙ふぶきとなってヒラヒラと舞う。
老作家は何度も何度も撒き散らしたあと、何か大切なことをなくしたことに気がつくんだ。

それが自分の名前だってわかるまでに数秒かかったんだ。

それでって? それだけだよ。いやそれだけじゃない名前をなくした老人はどのように立てばいいのかさえわからなくなるんだ。え。それじゃ救いがない。やっぱり君も救いを求めるのか。どんな救いだ。名前を取り戻すのかい。それじゃまた同じ事を繰り返すよ。僕が繰り返しているようにね。

ああ、だいじょうぶ。だいじょうぶだとも。
だから僕にきつい煙草をくれ。からくてガツンとくるやつを。
だから僕にきついコーヒーをくれ。苦くてドスンとくるやつを。

あいにくさっき全部なくなってしまったんだ。

曲がったね。もうすぐなのかい。あと信号をいくつだ。そうだよ、老人は名前をつけてもらうのさ。通りすがりの青年にね。
なんて名前だと思う。
良男だよ。
良いことをする男で良男。

名前をつけてもらった老人は良男らしく立つことができたし、良男らしく振舞うことができるようになったんだよ。それでどうしたと思う。まずは町の掃除さ。それからありとあらゆるボランティアに参加して、それでも足りなくて老人はサンタクロースになるのさ。

いい話だって。違うよ。全然違うよ。

サンタクロースになってまた気づくのさ。自分には配るものがなにもないって。

ついたのかい。ちょうどよかった。がんばっただろう。僕はがんばっただろう。撮っているのかい。そうか、もう君は映画監督なんだね。

ここかい。ここは君の部屋なのか。

君はドアをあける。そこには男がいる。あの頬杖をついて金の入った封筒をもらった男だ。

男は僕をみて顔色を変える。
君は男に「出て行け」という。
「ねえお願い」と僕に君は言う。
男は灰皿を投げつける。
僕は男に突進する。
君は「出て行け」という。
僕と男は揉みくちゃになる。
男の拳が僕の顔にヒット。
男の蹴りが僕の背中をヒット。
僕は男の襟首をなんとかとって投げ飛ばす。
足首をつかんで部屋から放り出す。
君はドアを閉めて鍵をかける。
男はドアを叩く。
君はずっとカメラを回している。
「ねえ、わたしを見て」と僕に言う。
僕はうなずく。
ドアはずっとドンドン、ドンドン。
「俺にはおまえしかいないんだ」とドア越しに声がする。
君は振り向くのをずっと我慢して、ドアをあけて「ちゃんとしてくれるなら許してあげる」と言う言葉を飲み込んで僕を撮り続けている。

僕はただ君を見ている。
玄関先でドアを両手で押さえて。その両手のあいだに君がいる。
やっぱり君は境界線にいたんだ。
なあ、そうだろう。
「あけてくれ、お願いだ」とドア越しに声がする。
「話し合おう。俺も悪かった」とドンドンドン。
君は境界線にいたんだろう。

君は叫んだ。 「どっかいっちまえ」とカメラを回しながら、僕から視線をはずさずにドアの外の男に叫んだ。
「もういっぱい、いっぱいなのよ。お願いだからどっかいって、どっかいってよ」

buy now !


(C) 2009-2012 Wish Co.,Ltd. All Rights Reserved.