もっと陽の当たる場所 石本ひろゆき 2011年11月3日連載開始。(全10話)
第10話
国道に出て、僕は商店街に足を進めた。
一時間も歩くと駅が見えた。地下道を通って商店街に出た。夕暮れのメインストリートはスーパーマーケットを出入りする人と駅から吐き出される人と駅へと向かう人とであふれていた。
僕は歩いた。まっすぐ歩いた。十五分歩いて、人はまばらになり、あの古本屋の前にきた。僕は躊躇なく境界線を踏み越えた。
電車にも乗った。
自分の意思で僕の町とは反対方向の電車に乗った。適当に降りた。
そこにも商店街があった。僕は歩いた。どこまでも歩いた。閉じ込められることなんてなかった。
一晩中僕は歩いた。朝が来ると図書館を探した。難しそうな本を選んで読まずに寝た。閉館のチャイムで起きる。外はもう暗い。僕はまた歩き出す。何もすることがなくて、夜は歩き、日の出ている間は図書館で寝る、の繰り返しだ。月曜日はつらい。たいていの図書館は休みだ。一週間に一度僕はフラフラになる。
国道沿いの牛丼屋にはいると、全身灰色の作業着を着た汚い老人が味噌汁だけをたのんで、ゆっくりと飲んだ。
秋が来てセーターとジャケットを買うともう僕の金はなかった。煙草はゲームセンターやパチンコ屋の灰皿をあさった。
のどが渇けば公園で水を飲んだ。
スーパーマーケットの試食で飢えをしのいだ。
それだけでは足りなくて、生まれて初めて万引きをした。
オニギリを手にとってから、雑誌を立ち読みして店員が油断するのを待つ。そっとポケットにオニギリをすべりこませ、ただ雑誌を立ち読みに来ただけだというような顔をして外にでる。すぐに路地裏に入り、食った。その手口で冬までしのいだ。ある日、僕はしくじった。外にでると「待て」と叫ばれた。
心臓がわしづかみされて、立ち止まり、僕は「すみません」と言ってポケットから温かい缶コーヒーを返すと走って逃げた。
それからも僕は歩いた。スーパーマーケットで「汚い手でつまむな」と怒鳴られた。
歩きつかれて座り込んだのは、あの商店街と駅をつなぐ地下道だった。
「ひま?」
顔を上げると初老の男が立っていた。褐色の肌に目はにごっていた。前歯は抜け落ち、髪は白かった。この男の作業ズボンも灰色に変色していた。
「ひま? 俺もひま。あんまりひまだから、今日は昔いた飯場まで歩いていったよ。もう雇っちゃくれなかったけどさ。兄ちゃんもどこかの飯場にいたんだろう」
僕は煙草はないかとねだった。
「ないよ、俺吸わないんだ。酒ばっか。本当はいけないんだけどね。これじゃ福祉の人も怒るって」
男は酒を飲むまねをしてみせた。
「毛布をとられちゃったんだよ。役所がくれたやつ。ここ置いておいたのに。これじゃ寒くて寝られやしない。また取りにいかないと、いやんなっちゃうね。なあ兄ちゃんは誰かの世話になっているのかい」
僕は首を横に振った。
「そうかい、それが一番だ。誰の世話にもならないそれが一番だ。俺はそうはいかないけどね」
突然、僕の目の前でダンボールが動いた。
白髪をくちゃくちゃに逆立てた浮浪者の顔がダンボールからあらわれた。
浮浪者の目は僕に向けられていたが焦点は合っていなかった。
感情すらも諦めたかのような目だった。何も言わず、何も表現しない、不思議な目だった。
「うるさいってよ」
作業ズボンの男が笑った。ダンボールから突き出ていた目は元のねぐらに帰った。
「明日は役所に行って毛布もらわなきゃ」
作業ズボンの男は去っていった。コツコツと安全靴とアスファルトが作る音が地下道に響く。蛍光灯がまぶしくて僕は目を閉じた。コツコツコツ。足音を聞きながら。コツコツコツ、コツコツコツ。 足音が止まった。
「ひま? 俺もひま。あんまりひまだから、今日は昔いた飯場まで歩いていったよ。もう雇っちゃくれなかったけどさ」
さっきの男の声が聞こえる。声のするほうに視線を向けた。
だが僕の目は焦点を結ばなかった。
なあ、誰か僕にきつい煙草をくれ。からくてガツンとくるやつを。
なあ、誰か僕にきついコーヒーをくれ。苦くてドスンとくるやつを。
ハイライトが欲しいんだよ。
もっと陽のあたる場所っていう煙草さ。
全然陽だまりの味なんかしないんだ。
でも欲しいんだよ。
パチンコ屋でもゲームセンターでもハイライトの吸殻になかなか出くわさないんだ。
隣りの男が立ち上がった。
次々と男達が立ち上がりダンボールを片付ける。僕は男達の後についていった。シャッターが開く。温かい空気が流れる。駅が営業をはじめた。
駅の構内に男達はたむろした。僕も彼らの後に続いた。駅長室の横。誰も使わない掲示板の下に一人の男が座った。次々と座り込む。僕もそれに続いた。もう寒くない。眠気が襲う。僕はほんの少し眠りに落ちた。
ラッシュになると男達はバラバラと姿を消した。
それがホームレスの掟なのかもしれない。迷惑は最小限にすることが大切なのだろう。僕は腰をあげ歩いた。どこということもなく僕は歩いた。
商店街は何も変わっていなかった。赤い喫茶店はあるし、スーパーマーケットの前は自転車が歩道の半分を埋めていて、ミニシアターはマニアックな映画をやっていて、十五分も歩くと、ここでもう終わりというように古本屋と小さなビジネスホテルがあった。路地を少し曲がるとピンクの女のスナックがあって、小道をぬけると公園があった。冷たい水を飲む。
寒い。
お腹がすいた。
食べるものはない。
スーパーマーケットに行こう。試食があるかもしれない。
次の日も、次の日も僕は地下道で夜を過ごし、駅の通路で朝のひと時を過ごし、スーパーマーケットで試食を食べ、そして夜を待って地下道へ帰った。規則正しく、僕は一日をそうやって過ごした。
ある朝、僕は寝過ごした。
地下道にはもうホームレス達の姿は見えない。ああどうしよう。はやく移動しなきゃ。人の気配がする。
顔を上げる。彼女が僕を撮っていた。
「やっぱりあなただったの」
僕は黙っていた。言葉がでなかった。
「モロ君たちがあなたらしきひとを見かけたって言ってて、ホームレスになってうろついてるって、それで思い出してここに来たの、あなたが嬉しそうに言っていた、あなたの場所を」 彼女は僕にノートを渡した。
「書いてよ。続きを書いてよ」
ノートは何度も読んだみたいで、僕が書いた部分だけ折り目がついて膨らんでいる。続きをかいてどうするっていうんだ。書いたところで僕は嘘しか書けないんだ。
「書いてよ。わたしのために書いてよ。わたしはあなたのノートでドキュメンタリー映画を撮るんだから。絶対撮るんだから。あなたみたいに中途半端なことしないんだから。だから、嘘でも何でもいいから書いてよ」
そう言って彼女は僕にペンを渡した。
僕が書き損じたノートを僕はめくる。詩とも小説とも脚本とも言えない言葉がノートの半分を埋めて、そして何度も書き損じたページの後は、白紙、白紙、白紙。僕はめくった。僕の未だ書いていない真実なのか物語なのか、もうわからなくなってしまった言葉の半分があるはずの白紙を、僕はめくり続けた。最後の一枚をめくると彼女の文字で『悲しみはまだはじまったばかりだ』と書いてあった。
僕はペンをとった。そして『ピンクの女の店は商店街の路地を少し曲がったところにあった。カウンターとボックス席が二つだけある小さなスナックで、青色の女がもう飲んでいた』と書き出した。
「なにか言うことない」
「煙草をくれないか。あとコーヒーも」
彼女はカメラを回しながら、ハイライトと缶コーヒーを渡した。
「火も貸してくれよ」
僕はどうしようもない気分でハイライトに火をつけた。深くて濃い煙がカメラと僕の間に漂った。きっと僕は美味しそうに、そして嬉しそうに煙を吸っているのだろう。
カット。
彼女がそう言った。
悲しみはまだはじまったばかりだ。