もっと陽の当たる場所 石本ひろゆき 2011年11月3日連載開始。(全10話)

第9話

長い時間、僕は彼らを見ていた。

蝉のセックスなんてあっという間だと思っていた。
でも実際は今までの暗闇を取り戻すかのように長く愛しあっていた。

僕が書き集めて、そして投げ捨てた物語の半身はいまどこにあるのだろう。足元に転がっていたらいいのにと身をかがめた。でもそこにはどこにでもある土と草と新しくもらった靴があるだけで、欲しいものはなかった。

「おまえのせいだ」背中越しに声を聞いた。
振り向こうと瞬間、背中に強い衝撃を受けた。
「殺してやる」という声を聞いたときには公園の土を噛んでいた。
殴られる。ボゴッ、ガツッという鈍い音がする。仰向けにされた。そこにあったのは彼女から金を巻き上げ、僕に追い出されたあの頬杖をついた彼女の男の顔だ。

「おまえは何なんだ」
男は殴る。僕を殴る。反撃しようとしてもアルコールの入った身体はフラフラでいうことをきかない。男も僕は唯の出演者だといってもきかない。

「ユウコは俺のもんだ」

「おまえ今日パチンコかなんかで大負けしたんだろう」

あいつの両手をつかんで叫んだ。
彼女はおまえのキャッシュディスペンサーだったんだろ。
それをいきなり取り上げられて頭に来てるんだ。
今日まではまだよかった。彼女から金を受け取ったばかりだし、パチンコでも負けなかったんだろう。
でも今日は負けた。彼女に電話しても出ない。部屋に行っても明かりがない。いつも置いてある場所に合鍵がない。
きっとここらへんで遊んでいるんでいるとふんで、うろうろしているところに僕がいたもんだからカッとなって殴ったんだろう。
だけどな、おまえの彼女の利用限度額はもういっぱい、いっぱいなんだ。

逆上した男は頭突きで僕を怯ませる。思わず両手を離す。僕は殴られる。

おまえも何かを言い訳にして彼女を食ってきたんだろ。僕もそうした。僕もそうしてきた。東京でそうしてきた。だからおまえは同じにおいを感じて僕を殴っているんだろう。

僕は殴られている。顔面を殴られる。それはまるで自分の自尊心を殴られているようだった。僕にもまだ自尊心があったことに驚いた。そしてこのしつこくへばりついている自尊心が僕に罪を犯させ、それをあの悲しみになすりつけようとしているのか。振り下ろされる拳が僕の自尊心を砕く。これでもかと砕く。

ああ、そうだ。
僕の悲しみがどこか嘘っぽいのは、このどうしようもない自尊心のせいだ。それで僕はこの自尊心のために悲しみを卑屈に笑っていたのだ。そうだ。僕は殴られるべき存在だ。大阪を逃げ出したとき、東京を逃げ出したとき、僕は殴られるべきだった。

「ユウコは俺のもんだ」

殴り疲れて、男はどこかにいってしまった。僕は公園に置き去りにされたてしまった。空を見上げる。東京の空と違って、広くて深い。あの蝉のつがいはどうなったのだろう。探したけれどわからない。夜空を見た。星が見えた。きれいだった。

多分、彼女は今の僕を撮っているような気がした。

いや、撮っていて欲しかった。

声がする。モロ君の声だ。
僕は「だいじょうぶだよ」と言った。
「おーい」とモロ君がみんなを呼んだ。
僕は「だいじょうぶだよ」と言った。
みんなが駆け寄った。
僕は「だいじょうぶだよ」と言った。

ピンクの女の店に担ぎ込まれた。ソファで横になった。
「病院いくか」とカイ君がいうので「いいよ」と断った。
「警察いくか」とまたカイ君が聞くので「そんな大げさなことじゃないよ」とまた断った。

彼女が氷で僕の顔を冷やしてくれる。
青色の女は飲んでいる。
モロ君とピンクの女がなにやら相談している。
彼女は僕のノートを読みはじめた。
氷を持った左手に触れると、彼女は僕を見て、少し微笑んだような気がした。
ピンクの女が「タクシー呼んどいたから」と近づいてきて、「だいぶ落ち着いたね」と優しく言った。

「あいつのことはわたしたちでなんとかするから、ユウコ、あいつのこと少し教えて」と彼女に言った。彼女は男の名前と電話番号と立ち寄りそうな場所や店を告げた。

「どうするの」
「ああいう男はいろんなところで借金してるはずだから、ちょっと友達に頼んで追い込みかけようかと思って。それで多分、だいじょうぶ。この町にはいられなくなると思うから。でも念のため引越しも考えたほうがいいかも。ほとぼりがさめたらなんとやらっていうのもあるしね。あの男、ユウコは俺のもんだっていったんだろ」
「はい」
「でもどうしてあの男があんたを見つけることができたんだろうね」

タクシーが来た。

カイ君が「自分もいく」といってついてきた。
「あいつがユウコの部屋の前にいたらやっかいだろ」と僕をかついで後部座席に押し込むと助手席に乗り込んだ。

車の振動に身をまかせて僕は少し目を閉じた。もうフワフワはこなかった。かわりに僕を殴った男のことを考えた。あいつは僕の半身だ。きっと半身だ。チープでどうしようもなくて、くだらない僕の半身だ。

「これからどうする」とカイ君が僕に話しかけた。
「これからって?」
「これからってこれからだよ。東京に帰るのか」
「わからない」
「この町に閉じ込められてるんだろう君は」
「そう、だと思う」
「もしよかったらこの町に住まないか。モロ君とルルさんが」
「ルルさんってピンクの人」
「そう、モロ君とルルさんが君でもできる仕事を探してくれるから」
「ありがとう」
「いいよ、別に」

カイ君は本当に別にどうでもいいように言った。しばらくの沈黙が僕のことより彼女のことを心配しているのがわかる。
「住み込みだとうれしい」と言うと「わかった、伝えておく」と少し事務的にこたえると、彼女が「ありがとう」と言ったら急に調子をかえて「まあ、しばらくはユウコの部屋でのんびりしてたらいいよ」と笑った。
「そうよ。そうして」
「うん」

部屋に着いた。あの男はいなかった。僕は自分の足で立てることができた。

「朝になって少しでもおかしいところがあったら病院いくんだぞ」

カイ君はそう言い残して、タクシーに乗り込んだ。あの男に僕の居場所を教えたのは、もしかしたらカイ君とモロ君かもしれないと思った。もしそうであったのなら、それでいい。男が僕を殴るカットは映像をつくるものとしては欲しいところだし、個人的にも僕を殴りたかったはずだ。さっきの「仕事」の話は僕への好意なんかじゃない。

あの男のようにはさせないという先制攻撃だ。

カイ君もモロ君も正しい。

僕はあの男と同種だ。
シャワーを浴びると傷口が傷む。
せっかくのTシャツとズボンが泥だらけだ。浴室から出るとコンビニエンスストアの袋があって、中にパンツと白いTシャツが入っていた。

「今日はベッドつかって。わたしソファで寝るから」

空調のきいた部屋は心地よかった。リュックを開けると、もうそこには詩とも小説とも脚本ともいえなかったあの言葉たちがなかった。そうだ、僕はあの映画館のロビーで、自分自身が書きかけた老作家のようにすべて破り、そしてばら撒いたんだ。

空洞のリュックから睡眠薬を取り出した。
痛み止めがわりに、いつもの倍以上、飲んだ。


夜が切り取られた。

もう、彼女は仕事に出かけていた。テーブルの上に合鍵と一万円札が一枚あって、メモがあった。

『おはよ。気持ちよさそうに眠っていたので起こさなかったよ。帰りは遅くなります。お金持っているかどうかわからなかったので、余計なおせっかいかもしれないけれど、少しおいていきます。それでしばらくご飯とか食べてください。それからたぶん骨折はしてないと思うけど、なにかあったら病院にいってね。ユウコ』

鏡をみるとひどい顔だ。
目が青黒く腫れていて、唇が倍に膨れ上がっていた。
試合に負けたボクサーのようだ。これじゃ外に出歩くこともできないな。
窓をあけるとこの何日かが嘘だったような秋の風がふいていた。

この町に住むのか。

それもいいかもしれない。

頭をつかう仕事じゃなくて肉体労働がいいな。また新聞配達でもしようかな。工場でボルトを締めたり、機械部品をプレスするのだって悪くない。そしてときどき彼女とカイ君とモロ君といっしょに映画を撮ろう。週末にはピンクの女、たしかルルさんの店に行こう。時々青色の女、名前をちゃんと聞いてなかったな。今日彼女が帰ってきたら聞こう。それであの青色の女と飲むことになるんだろうな。

この町に住むのか。

それはたぶんいいことだ。ただの僕でいよう。
ただの僕がここに閉じ込められているのなら、それはそれでいいのかもしれない。逆に考えれば、ここにいる限り、僕はただの僕でいられる。純粋な僕だ。

純粋な僕。

とてもいい響きだ。きっと意味なんてないのかもしれない。意味があってほしい。でも意味なんてどうでもいい。僕がおかしくならずに生きていけるのなら、それでいい。純粋な僕も耐用年数があるかもしれない。でもあの時と違って嘘をついていない。

ソファの隅に、僕のノートが落ちていた。昨夜のことを書こうと、ペンをとって、『ピンクの女の店は』と書いて手が止まった。僕は斜線を引いて『ピンクの女の店は』を消して、もう一度『ピンクの女の店は』と書いて、また手が止まった。
僕はまた斜線で消して、また『ピンクの女の店は』で止まる。違うことを書こうと思っても何も手につかない。何度も『ピンクの女の店は』と書いて、何度も斜線で消した。

昨夜のことを書くならピンクの女の店に行くところから書かなきゃいけない。なのに僕はそこから一歩も出ない。
ニコチンだ。
ニコチンが足りないんだ。
カフェインだ。
カフェインが足りないんだ。
ハイライトに火をつけて、苦くて濃いコーヒーをいれた。
でも書けない。

外にでるとやっぱりまだ暑い。蝉も泣いている。さっきの風はどこへいった。

コンビニエンスストアで弁当を買った。僕の金で買った。

あの一万円は手をつけてはいけない。

部屋に戻り、チキンカツ弁当を食べる。口の中が切れていて、食べにくい。なんとかゆっくり噛んで飲み込んだ。またハイライトの濃くて深い煙を肺に入れた。苦くて重いコーヒーを胃に流し込んだ。

そしてノートに書き出そうとして書けなかった。

やっぱり何度も『ピンクの女の店は』と書いて、何度も斜線で消した。無駄に消費されるノートの白に僕はまたここが境界線なんだということを知る。僕は立ち上がって部屋の中をグルグル歩き始めた。

彼女のデスクの上には昨日まで撮っていたビデオカメラがあった。HD内臓の最新式だ。彼女が撮った僕を見よう。彼女は昨日もカメラを回していた。きのうの僕がいるはずだ。それをそのまま書こう。

僕は見た。

古本屋で硬直した僕を。
僕は商店街の端を出ようとして立ち止まり、古本屋に入る。
古本屋で何冊か手にとってはもどしを繰り返し、また外にでようとしてできずにまた古本屋に入る。そして同じ動作を繰り返して、境界線で硬直する。
画面から彼女の手が伸びてきた。
僕は彼女の手を握って引張った。
僕が引張られたんじゃなかった。
「閉じ込められてるって本当なのね」と彼女の声がして僕は顔を歪めて。
「本当なんだよ」と言っていた。
僕は見た。
煙の奥の僕の顔を。
地下道で僕は美味しそうにハイライトを吸っていた。
どうしようもない気分だったはずなのに。
「ここが僕の場所なんだ、多分」と嬉しそうに笑っていた。
まるで彼女を母校の教室に案内して、ここが僕の席なんだよと紹介しているみたいだ。

僕は見た。券売機で彼女が東京までの切符を買おうとして僕が取消のボタンを押すのを。

僕は見た。タクシーの中で老作家の話をしながら「どうして僕を連れ出すんだ」と怒っているのを。

僕は閉じ込められたんじゃなかった。
閉じこもったんだ。

僕はこれ以上見られなくなって、早送りして、画面を昨日の夜にしようとした。

立ち上がった。どうしようもなくて立ち上がった。

そしたら足元に紙袋があった。
中を見ると僕が破り捨てた詩とも小説とも脚本ともいえない言葉の群れだった。
僕が映画館で撒き散らしたあの言葉だ。
持ち上げると軽かった。そんなはずがない。
あれだけずっしりと背中に食い込んで、僕を地面にうずくまらせた言葉がこんな軽いはずはない。

これは一部だ。きっと一部だ。

画面を見ると僕の頬をコーヒーの滴が塗らしていた。

「だいじょうぶ」と彼女の声が聞こえる。
もうすぐだ。僕は早送りする。

映画館のロビー。ここだ。僕はここで重くて苦しい言葉を宙に舞わせたんだ。ほら、僕がリュックに手をつっこんで紙の束を破り捨てて放り投げている。
そうだ。
ここで僕は書きかけの物語から解放されたんだ。

ビデオカメラはまだ撮り続けている。カイ君とモロ君が僕の言葉を拾い集めている。
僕は呆けていて、動かない。
カイ君が「おまえのなんだから、拾えよ」と僕に怒鳴っている。
僕は「ごめん」といっていっしょに拾い集める。紙袋いっぱい。

目の前にある通りじゃないか。ビデオを止める。

僕は何なんだ。ノートを見る。そこには僕の決意が書いてあった。

『僕はこの町に着いて、ベンチで眠り目が覚めて老人に出会ったところから刻銘に書き綴った。それは物語ではなくて本当のことをできるだけ正確に書こうと思った。それは書くことでどこかにこの町から出られる何かが見つかるかもしれないと思うからだ。それに本当のことを書くことで僕のリュックに詰まっている物語の亡霊たちを救い出せるかもしれないと思ったからだ』

僕は少しも本当のことをできるだけ正確に書いてなんかいなかった。
閉じ込められてなんかいなかった。
物語は亡霊と呼ぶには軽すぎた。
ノートをめくって何度も何度も読み返す。

僕はここでも少しずつ、自分でもわからないように嘘をついていたのか。僕はもうわけがわからなくなって、昨日の昼間に書いた朝の出来事の後に『それから僕は一行も書けなくなった』と書いて、泥だらけの昨日のTシャツとジーパンを着て彼女の部屋を出た。

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